ゼミ「哲学」

 こんにちは(^▽^)/

前期期間すべてが、オンライン授業だと決まり、大学の友達とはますます会えなくなってしまいました…大学付近の、あるラーメン屋さんが凄く好きで、お腹が空いては、そこのラーメンを思い浮かべ、もう恋しい気持ちにまでなっています。

ゼミも、引き続きオンラインでの活動です!

 

さて、今回の内容ですが、

「哲学」です!!

哲学という言葉を聞くだけで、堅いイメージをもってしまい、普段から私とは程遠いワードですが…どうなるのでしょうか?!

 

哲学の内容として、「差別感情の哲学」という文章をグループに分かれ、音読し、考察していきました。難しい言葉も多く、ゼミの時間内で理解することはとても難しいことでした。みんなの意見を聞き、なるほどと思うこともあったので、それらを踏まえ、A・B・C・Dに分けられた文を考察していきます。

 

Aの段落のみ授業内でも読みましたが、ゆっくりと考えていきます。

大まかにいうと、悪意に基づく差別の捉え方についてだと考えます。ただ、その表現の仕方がなかなか難しい…

 「現実的には外形的に他人に危害を加える行為の内的動機を抉り出すことは虚しいであろう。」とあるが、実際に想像してみたときに、納得するものはあるが、同時に、内形的の場合もそうではないのか?と疑問をもちました。

また、差別に対する言及として、悪意が一概に悪いものだと断定はできないということが伝わってきます。

それは、悪意=攻撃性があることで、文化が成立することや、これがないと支配的な位置に達せっず、大きく種族として生き残れないともあります。

これらを踏まえ、悪意を一掃するのではなく、悪意を持ったまま制御することが大事だといいます。

はじめは、悪意に基づく差別の捉え方についてだと思いましたが、あまりにも悪意について焦点を当てているため、読者へ悪意の捉え方を提案しているようにも、思えてきちゃいます…

 

次にBの段落に入ります。

快・不快が大きなテーマとなります。

これらを人に対して感じたり、もしくは自分が人から感じられることは、傷ついてしまいます。しかし、快・不快を統制することは感受性を枯渇させてしまうという表現があり、表現の自由に基づき、生活をしていく中では、むしろこれらの感じ方が、欠かせないのかもしれないとも感じました。また、もし人に対して不快に思うことがあったとしても、おもむろに表現せず「不快であっても不快でないように振る舞え」という通俗道徳は、たしかに私の心にも浸透しているように思えます。

私が一番気になったのは、「日々不快を好きなように放出している人でも、公認された被差別者に対してだけは、不快を表出しないように賢く振る舞っている。なぜなら、そう振る舞わないと身の危険を招くからであり、社会的に葬り去られるからである」の部分です。ここでいう被差別者は障害者や浮浪者を指していますが、その他大勢の人々でも、なぜなら~の後半部分の文が当てはまると思ったからです。もし、仮に不快な表現を示していいとするのなら、家族・友人などの余程の親しい中であれば、許されるかもしれません。ここで気になった言葉は差別感情のスペクトル」です。

この場合、差別感情の範囲だと捉え考えていくと、人の感じ方・捉え方次第で変わってくるのでは…?と思いました。私が例に出した親しい家族・友人の場合だと不快を表す側は、相手の許容範囲を知った上で、思ったことを伝えることができ、受け取る側は、その言葉の裏側まで感じ取れるからです。(言葉の裏側は、その人の特性を理解しているうえで、直したほうがいい部分を指摘するようなものだと考えます。)

 

次に、Cの段落へと入ります。

この段落では、少し、差別というテーマから遠ざかったような印象を持ちました。

まず、人間の帰属意識についてですが、考えたこともなかったが、とても大きいものだと思います。国・民族・家族・出身校などが挙げられているが、これらを表す言葉として、母国や母校などをよく耳にするので、帰属意識の高さを感じ取れます。同じものを表す言葉ではありますが、私の主観では、後者の響きには愛着を含めたものが感じられます。そして、帰属意識を愛することに由来する差別感情は、ある意味で自然である。という言葉に、なるほどなとなりました。個人では差別感情が生まれなかったものでも、集団になるとランク付けなどの差別感情が生まれていることが、あるからです。これらの帰属意識には、アイデンティティが伴うという。集団に属している自分を含め、自己だということだろう。

 

最後に、Dの段落です。

ここでは小学生の頃や、幼い頃からの教育によっての差別意識が取り上げられています。「よいこと」を教えられているため、そうではない者と比べ蔑むことが、なんら自然だといいます。たしかに、賢い子供はたくさんの勉強をしていく中で、他の子と比べながら軽蔑・差別意識を持ってしまうかもしれない。ただ、このことを利用し一つ言えるのは、競争精神として、自分を育てるという側面があるということです。近年、差別問題を取り上げていることは多いが、この幼い頃から自然と植え付けられているような、差別意識について言及していることは滅多にみない。実際に、小学生の頃から「あの子よりできた!」など優越感の感覚はありましたが、それを差別意識だとは思わず、自然なものだと今でも捉えています。なので、この段落は、私にとってかなり難しいお話だといえます。「成績も悪く、素行も悪く、怠け者であるB君を、それでも人間として、尊敬しなさいという教師の言葉は、はたしてどのくらい子供たちの心に訴えうるのか、真正面から考察する必要があるように思う。」とあるが、少しでも良いところを見つけようとする心があるとすれば、そんなすぐには、人間として尊敬できないの対象にはならないのではないか…?と考えました。

 

「哲学」に初めて取り組んだ感想としては、もう少し簡単に言えそうなのに難しい言い回しが多くて、読めば読むほど、どういう意味だ?!となってしまいました。

これは捉え方がポイントだと思うので、他のみんなのブログを読んで、考える幅を増やしたいなと思いました。

長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださり、ありがとうございました^^